
「女たちの物語り歌」
—古代ギリシア、ブルガリア、ベンガルより—
4月7日(土)16時半開場17時開演
場所:東中野キングスカフェ
2500円軽いお茶菓子つき
語りたい、わたしのうたを
歌い上げたい、古くからの物語を
出演:
佐藤二葉(古代ギリシア劇)
佐藤みゆき(ブルガリア民謡)
佐藤友美(バウル)
今回の「女たちの物語り歌」 主催者にとっては、昨年9月に開催した「詩歌の翼:ペルシャ、スーフィー、バウルの詩〜チグリス川、インダス川、ガンジス川のあいだ〜」と地続きの企画になります。
そもそもの発端は、東京各地で行われている民族音楽のライブに出入りする中で、言葉や詩という側面が軽視されている、と感じたことです。
楽器の演奏者に比べると、歌に取り組む人が少ない…という理由だけではなく、何か、取り上げるとしても少し笑いものにして、ネタとして扱わなければいけないような、何かそういう空気感があるように思えました。
私は昔から、言葉に関心がありました。大学では言語学の、意味論という分野を学びました。 私自身、言葉は使いこなせません。人に説明することは苦手だし、考えなしに安易に言葉を発してしまうこともたくさんあります。
だけどそれにしても、どうしてこれほど、言葉は軽んじられているのでしょう。 私はこれを、世間で一般的に言われているような意味で言うのでは、全然、全く、ありません。でも、それを説明できる自信も無いのです(こういうこと言うと、無責任だ! と言われることも、知っているのですが…)。
あえて言うなら、言葉そのものの持つ力のことを言っているのです、たぶん。
たとえば、翻訳で伝わらないものや、失われるものというのは、絶対的にあります。 だから、歌を聴くだけで、それだけで充分伝わるし、余計な説明はいらないのだと言われれば、それも一理あるとは思うのです。
でもやっぱり、意味が分からなければ伝わらないものもある。 このジレンマをどうすればいいだろう。
また、この地球上に残されている詩の多くは、読むことを前提としていません。 歌うためのものなのです。
中国語の「詩」という言葉はそもそも、「歌」という意味だったそうです(だって詩経って主に民謡ですよね)。
でも旋律が分かる人がいなくなって、今度は「詞」が歌になりました。
でもそれも歌える人がいなくなって…と、意味が変遷していったということです。
文字の発明なんて、人類の歴史では本当に最近のことです。
まとまりませんが、これらの、どうしようもなく存在するギャップを橋渡しすることに挑戦するものとして、この企画は立ち上がりました。
また、本当にその歌、詩、言語、その地肉である文化、その言葉を生きる身体……これらに取り組む人たちが集い、交流し、それを関心のある人々もシェアできる場にしたいと思いました。
ある意味では、これは口承文学への讃歌であり、それに取り組む人々へのエールなのです。

